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法学部ってどんなところ?「スポーツと法を学ぼう」

スポーツと法を学ぼう
~スポーツと法律ってどのような関係があるのだろうか?~

みなさん、こんにちは!今回の「法学部ってどんなところ?」では、「スポーツと法」という講義を紹介したいと思います。流通経済大学法学部(龍ケ崎キャンパス)には、運動部に所属している学生も少なくありません。そのため、法学部の講義科目のなかに「スポーツと法」という講義も用意されています。では、この講義では具体的にどのような事が学べるのでしょうか。講義を担当している西島先生にお話を伺いたいと思います。

 

<教員紹介>
西島良尚:法学部ビジネス法学科教授(大学院法学研究科長)
早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了、現役弁護士 2007年より現職
専門:民法

 

―――こんにちは。今日は、先生ご担当の「スポーツと法」では、どんなことを学ぶのか教えてください。
西島:訊いてくれてうれしいですね。その前に、「スポーツ」と「法」がどんなふうに関係するか、イメージがありますか?

―――えーと・・・、スポーツ中の事故が起こって、損害賠償とか・・・、えーと、あとは、運動部の暴力事件とか・・・
西島:そうですね、「事故」の問題が出たのは「いい線」いっています。「暴力事件」というのは、まともな運動部ではありえないことだけど、残念ながら一般的には起こりうることですね。それは「スポーツと事故」の問題の一種といってもいいけれど、運動部に限らず、閉鎖的な集団で起こりうることかもしれません。

―――運動部で暴力事件が起きやすいといったことがあるのでしょうか?
西島:必ずしもそういうわけではないけれど、一つのパターンとして、集団のなかで「同じ価値観を持つべきだ」という「思い込み」が激しいときなどに、それになじめない人(たいてい「弱い立場の人」)に対する、集団的な「抑圧」のヒドイ場面として暴力事件が起こることはあります。ある意味でイジメのヒドイ場合といってもいいでしょう。

―――そうか、人の「集団」というのは、そういう問題を常に抱える可能性があるということですね。そして集団でスポーツをする場合にも同じ問題が起こりうると…
西島:そういうことです。「スポーツ」は、本来、肉体や精神を鍛える「スポーツ」を志す者どうし、お互いの価値観や人間性を認めあって(要するに、いろんな仲間と一緒に汗をかいて)、お互いの「生きる意味」に「共感」しあえる最良の場の1つのはずですよね。なので、スポーツの指導者を志す人は、そういう「集団的病理」のリスクも意識しながら、それとは本来真逆であるはずの「スポーツの本来の精神」を後輩たちに伝えることが大事だということが言えますね。

―――「スポーツと法」では、スポーツに関連するそういったリスクについて学ぶことになるわけですね。
西島:そうそう、本質に迫ってきましたね。ただ、少し補足すると、仕事でも、スポーツでも、普通の生活でも、人が積極的な活動をすること自体、何らかのリスクを伴うものです。けれども、そのリスクを恐れていては、何もできなくなる。スポーツなら、それに伴う法的リスクを予め具体的に知り、それに向き合って、それを予防し、コントロールすることを学ぶことこそが大事ですね。

―――スポーツの指導者になろうとする人はもちろん、スポーツをする人は学んでおくべきことですね。
西島:そうですね。また「スポーツと法」に関連する主なテーマとして、「スポーツと事故」の問題は、重要なテーマの一つだけれど、「スポーツと契約」の問題や「スポーツと基本的人権」の問題も意識しておくといいでしょう。

―――それらのテーマについてももう少し教えていただいてよろしいですか?
西島:「スポーツと契約」は、プロスポーツ契約に関するものです。たとえば、プロ野球選手契約などは、「契約」の「公平性」や「公正性」の観点からいろいろ問題を含んでいるので、プロスポーツ選手を目指す人はぜひ学ぶべきです。そうでなくても、「契約」というものの奥深さを学ぶにはいい素材ですね。

―――ありがとうございます。では「スポーツと基本的人権」というのはどのような問題なのでしょうか?
西島:「スポーツと基本的人権」は、憲法の問題に関わります。国の最高法規である憲法は、国や自治体などの公権力に対し、「スポーツをする自由」を侵害しないことを義務づけ、「スポーツをする環境を整える」義務づけをもしていると考えられます。憲法は「スポーツをする自由」をも守っているのです。授業の中ではそのことの意味を学ぶことになります。

―――え、「スポーツをする自由」が国家権力から侵害されることがあるんですか?
西島:「スポーツ」で、肉体を鍛え精神を活性化することは、人間の基本的な営みに関わる「人権」「自由」の一種で、「学問の自由」「表現の自由」「信教の自由」とも共通する精神的自由の一種ともいえる面を持っています。それが、太平洋戦争中のような特殊な事情の下とは言え、野球などは敵国アメリカ由来の「敵性スポーツ」として国家権力により禁じられた歴史があります。そのことの意味は、単に自由にスポーツができないというだけではなく、スポーツと平和の問題スポーツと政治の関係など、いろんな問題がからむけど、人間の社会が変な方向に行くとそんなことも起こりうることとして学ぶ必要があります。

―――なるほど、国家権力というのは、その時々の権力の都合によっては普段では考えられないような変わり方をするものなのですね。

西島:だからこそ、憲法は、そうならないために、人権侵害をしないように国家権力にタガをはめ、主権者である国民が民主政の仕組みを通して国家権力が変な方向に行かないように監督できる仕組みを作っています。ただ、その仕組みが十分に機能するかどうかは、国民の努力次第ともいえます。

また、国家権力によるスポーツの自由の侵害とは別の場面でも、スポーツと人権の問題は密接に関係しています。

たとえば、オリンピックなどのスポーツの祭典で、選手から人種差別や人権侵害に対する批判のメッセージが発せられることが多いでしょう。

オリンピック憲章の最初の「根本原則」の第2項で「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指す」とあり、第6項では人種、性別、言語、宗教、政治的意見または、出身国や社会的な身分や財産などによって「いかなる差別も受けることなく」権利や自由の享受が保障されることが明記されています。

それによると、スポーツ選手が人権侵害に対する批判をオリンピックでアピールすることは、それが大会の進行を妨げることのない理性的な方法であれば、むしろオリンピック憲章の精神にかなっているといえます。どんな政治的立場であっても人権を守るためのアピールは普遍的なものであり、それを特定の政治的立場を偏重する「政治的中立性」を害するものと混同してはいけない、ということにもなります。

―――なんだか、奥深くて、広い問題ですね。でも、「法」を学ぶというのは、良いことも悪いことも含めて、僕ら「人間の営み」の深いところに関わることなんだということを感じました。そうしたことを、きちんと学ぶこと自体が「カッコいい」ですね。
西島:そう感じてくれると、僕も大変うれしいですね。そうですね。「法」をキチンと学ぶことは、人が生きていくうえで、イヤでも向き合わないといけないことに、予め、きちんと向き合い、「よりよく生きていく」ことができる「助け」にすることだと思います。「楽しい」だけでは終われない学問分野だけれど(人間や社会を扱う以上、程度の差こそあれ、すべての学問に共通するはずです)、それをキチンと学ぼうとすること自体「カッコいい」ことですね。


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