流通経済大学 三宅雪嶺 記念資料館
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師・友・ライバル

 

明治の青年
学友達

雪嶺が名古屋の官立愛知英語学校に入学したとき、上の級には坪内雄藏(逍遥)がいた。この英語学校時代、朗読法に熱心な外国人教師がおり、ジェスチャー混じりに朗読していたことから、坪内の朗読法も間接的にその教師の影響を受けていたのでは、と雪嶺は分析する。また、東京開成学校予科に入学したときの同時入学の人物として高田早苗がおり、大学予備門に復学した際には岡倉覚三(天心)がいた。岡倉とは寝室が同室となり、彼は木の切れや紙の切れなど、手当り次第に詩を書いていたと述べている。

岡倉 天心(1862〜1913)
美術評論家、美術運動指導者。東京大学で師事したフェノロサとともに古美術の保存、保護に尽力、東京美術学校校長として、また校長を退いてからは日本美術院を創立して日本画の改革運動を進めた。欧米に対する東洋文化の紹介でも知られ、著書に『茶の本』『東洋の理想』がある。
坪内 逍遥(1859〜1935)
英文学者、小説家、劇作家、評論家。明治16年に東京大学を卒業し、東京専門学校(現 早稲田大学)の教師となった。明治18年に文学論『小説神随』と小説『当世書生気質』を発表、日本の近代文学の端をひらいた。シェークスピアの研究・翻訳にも力を注ぐかたわら、島村抱月と文芸協会を設立し、新劇運動に大きな足跡を残した。
高田 早苗(1860〜1938)
教育者・政治家。東京大学卒業後、大隈重信による明治15年の東京専門学校創設・改進党結成に参画した。教育者として東京専門学校で講師を務め、のちに早稲田大学初代学長、また第3代総長となる。政治家としては改進党系の議員として活動し、第2次大隈内閣で文部大臣を務めた。


師と学問

雪嶺の東大時代、邦人教師として中村正直、外山正一が、外国人教師としてはモースらがおり、フェノロサがのちに招聘されてきた。哲学を専攻したのは彼一人であり、フェノロサ、外山から影響を受けたという。そのほかモースのように、学生の研究心をかき立てるような教員を印象深いとして自伝に採り上げている。
また、スペンサーやカーライル、ヘーゲルの著作を乱読し、学問として身に付けていった。

フェノロサ(1853〜1908)
Fenollosa, Ernest Francisco
哲学者・日本美術研究家。東京大学に招かれ、明治11年に来日。理財学・哲学を教えるとともに、日本美術の研究を深め、海外に紹介した。岡倉天心とともに古美術の保護を指導し、伝統美術の復興にも尽力した。帝国博物館の設立を訴え、東京美術学校の創設にも参画するなど精力的な活動を行った。
外山 正一(1848〜1900)


社会学者、教育者、詩人。明治10年に東京大学が成立すると、最初の邦人教授の一人となり、哲学、心理学、社会学などを講じた。のちに帝国大学文科大学長、東京帝国大学総長を歴任。「番人」と呼ばれたほどスペンサーの進化論に精通するとともに、文芸や絵画・演劇にも造詣が深く、新体詩運動など多方面に活動した。
スペンサー(1820〜1903)
Spencer, Herbert
イギリスの哲学者・社会学者。ダーウィンの進化論を社会現象にあてはめ、社会進化論を説いた。著書(訳書)が「民権の教科書」と称されるほど自由民権運動を鼓舞した一方、その思想が適者生存・優勝劣敗の論理として民権思想に対する批判に使われるなど明治期の日本に大きな影響を与えた。


思想と言論に生きる
政教社

『日本人』創刊号(明治21年)の巻頭の一文。設立当初の同人の名前が見られる。政教社は、その後、宮崎道正(1852-1916)、杉浦重剛(1855-1924)を加え、更にのち、内藤湖南(1866-1934)などが加わった。


近代国家としての日本の体制が確立されるころ、より「国民」的な時代の潮流を形成しようと、知識青年たちは政治結社とは異なる組織体を形成した。そのうちの一つが雪嶺も関わった「政教社」で、命名は井上円了による。

彼ら同人は、政府の欧化主義および妥協的外交姿勢と、教育制度の改革による大学への干渉に対する反発を持っていた。それをきっかけとして広い意味の文化思想運動を展開するため、メディアとしての機関誌『日本人』を刊行した。政教社の創業費と『日本人』発行のために、各自50円ずつ持ち寄ったという。

同人の特色は、士族層が多く、当時としては最新最高の学問を修得し、官に反発しながらも教育に従事した者が多いことに見られる。


言論界の老大家として
私淑者たち


二八会集合写真

はじめて自分の家を持った大正7年(1918)、それまで田辺家に同居していた雪嶺は、私淑者たちによって建てられた豊多摩郡代々幡町(現在の渋谷区初台)の広い家に移った。この家に堺利彦らが「押しかけ会」と称して毎月集まり、花圃の手料理で雪嶺を囲み、時事問題その他を談論した。この会は、雪嶺の長男・勤が、勤務中の不慮の事故で没した後も、「二八会」と名称を変え継続した。この名は雪嶺を慰めるため、勤の誕生日が4月28日であったために付けられたという。しかし、会の発言が雑誌に載るようになり、談論風発といった自由な雰囲気は失われていった。

私淑者たちのうち、堺利彦は昭和8年(1933)に没した。鶴見総持寺の墓碑は雪嶺の揮毫になるものである。また、岩波書店を創業した岩波茂雄は雪嶺を崇拝していて、その本名・雄二郎にあやかって、長男、次男を雄一郎、雄二郎と命名している。このように、言論界の老大家である雪嶺の魅力は多くの人々を捉えていた。

堺利彦(1870〜1933)
社会主義運動家。『萬朝報』記者を経て、幸徳秋水と『平民新聞』を創刊、非戦論を主張した。日本の社会主義運動を先導し、日本社会党、日本共産党の創立に参加した。
岩波茂雄(1881〜1946)
岩波書店創業者。杉浦重剛日本中学校長を頼って上京後、東京帝大哲学科選科を卒業し、書店を開業。哲学・思想書などの出版を行い、文庫・新書・講座の出版の先駆をなした。


雪嶺と中野正剛

雪嶺の文化勲章受章祝賀会

大正2年(1913)、雪嶺の長女・多美子が『東京朝日新聞』記者・中野正剛と結婚した。正剛は婚約が決まった途端に「多美、多美」と呼んで、一家の一員のようであった。母である花圃は、どうも気乗りがしなかったが、決まってみるといい女婿だったと述べている。

その後、政界入りを視野に入れた正剛が『東方時論』の主筆となり、東方会という会を作った際、雪嶺もその一員となったが積極的な活動はしなかった。

次男、長男を続けて失った三宅家にとって、正剛は非常に大切な存在となった。昭和7年(1932)、雪嶺は前年に出版された改造社版『三宅雪嶺集』の印税の殆どすべてを出して、中野家の新居を自宅のすぐ近くに建てた。これと前後して中野家では昭和6年の長男・克明(雪嶺の初孫)の前穂高岳での遭難死、昭和9年の妻・多美子の病死、翌10年の次男・雄志の病死と不幸が続いた。

正剛は多美子の没後も雪嶺、花圃を「お父様、お母様」と呼んで、多忙な政治活動の合間にしばしば三宅家を訪れた。また東方会の政治活動のなかで秘密にしたい会合などには雪嶺の書庫を利用した。



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