ポンピドゥーセンター (2005年)

 建物自体も現代美術である現代美術館であり、関係資料を集めた図書館もかねている。この建物も、エッフェル塔同様、建設当時はパリの景観に合わないと、大きな論議の的になった。しかし、年月がたてば自然に落ち着くもので、いまや立派にパリの名所のひとつになっている。ことに、現代美術館前の広場には、大道芸人が多く集まり、様々なパフォーマンスをすることで有名になった。センターの中に入る気はないが、それを楽しみたいとやって来る観光客も多いと聞く。

 私たちが訪れたときは、あいにく、芸人はひとりふたりしかおらず、にぎやかな様子は見られなかった。もしかすると、この季節は、もっと暖かい南スペインの方が、客も多くていいのか、むしろバロセロナでそうした大道芸人を多数見かけた。

       

 上4枚は、バロセロナで見かけた大道芸人。他にも、じつに様々の「生体彫像」がいた。

 ポンピドゥーセンター脇の噴水

 これも現代美術。

 ところで、現代美術とは何なのか、気になって、いろいろ本を読んだが、よくわからない。書き手の多くもはっきり分かっていないか、読み手によく分かるようには書けていない。しかし、概してもやもやとした彼らの本をとおして、よくわかったことは、確かなものはない、ということである。もはや、なんでもアリ、という感じである。つまり、ある総合的な概念で総括できなくなっている、ということのように思われる。いいと思えば、いい、のである。現代美術には、あくまで視覚的なものもあれば、視覚外の感覚を動員しようとするものもある。また、感覚的印象がすべての作品もあれば、感覚をとおして、観念的、思弁的な領域に引っ張り込むことを目的とした饒舌なもの、言い方を変えれば感覚を道具に理屈を主張しようとするものもある。絶対的基準は初めから否定され、その価値は相対的なものといっていい。したがって、しばしば、自己満足的なものにもなる。ともかく自由なのである。

 かつて、サルトルは、「人間は自由たるべく呪われている」と言った。つまり、神が死に、それによって絶対的な価値が失われたいま、自分の生の価値を決めるのは自分だけであり、またその全責任を負うのも自分である、ということである。既存の価値の絶対性が否定されれば、こう生きることがいいとか、正しいとか、ともかく行動を支えてくれるものが何もない。すべては自らが決め、その結果を自分だけが背負わなければならない。したがって、自由はおそろしく不安であり、結果責任が常に自分ただひとりにまとわりつく「呪われたもの」ということにもなる。

 現代美術もまさにしかりで、美の価値を決めるのはわれわれひとりひとりである。どこにもよるべがない。こういうものがいいのだ、という客観的な基準がすべて否定されているのだから、ともかく、いいとするのは自分なのである。しかし、そのとき、たしかにいいとするには、自分の中に美に対する一種の確たる体系を持っている必要があろう。これは、美にさほど興味のない一般人には困難なことである。もちろん、昔から美を味わいうるには教養が必要で、それができるのは限られた人であったが、それでも、昔は、少なくとも美を教示されて、その基準に従って安心することができた。いまはそれができないのである。だから、なんでもアリ、であり、現代美術も「自由たるべく呪われている」ということになる。

 とはいっても、絶対的なものが何もなくとも、われわれがみな同じ人間である限り、人間すべてにつうじる共通のものはある。つまり、私が思うには、人間にとって絶対的な価値体系はなくとも、いくつもの普遍的価値は存在する。たとえば、「愛」とか、それが社会化した「仁」とか、あるいはその実践において生まれる「名誉」とか、などなどは、人間にとって、未来永劫、価値あるものだろう。美についても、何らかの普遍的なものはある、と思う。ただし、現代美術作品から、実際にそれを抽出して、自分たちにとってのその作品の価値を主張することは、恐ろしく難しい、と感じている。結局のところ、私には、相当好きないくつもの作品と、まったく共感を覚えず、ずいぶん金と手間のかかった粗大ごみのようにしか思えない作品があり、(もちろん、その中間もある)、後者はきっといずれ歴史の中で淘汰されるだろうという自分なりの自信がなくもないが、人にはちょっと言えないなー、という感じなのである。